“Eric”

The Story of TRADROCK

Written by Hiroshi Otomo / February 2010

 ロックやブルースを中心に、アメリカのルーツ音楽に関して数多くの注目すべき著作物を残してきたグリール・マーカスは、その代表作『ミステリー・トレイン』のなかでこう書いている。

━━━この世の美のすべてと、それを失うことの恐怖のすべてが、エリック・クラプトンのロックにはある。

 また、クラプトンが「もっとも強い刺激を受け、衝き動かされた存在」と語るブルースマン、ロバート・ジョンソンの音楽との関係に言及して、マーカスはこういったことも書いている。

━━━ロバート・ジョンソンの曲を歌っている時ではなく、たとえば「レイラ」のように、ジョンソンの音楽が完全に彼の一部となった時、より強くその愛を感じとることができる。

 エリック・クラプトンは、1945年3月30日、英国サリー州のリプリーという街で生まれている。05年春、クリームの再結成コンサートを観に行った際、ふと思いついて訪ねてみたが、そこは、豊かな緑が広がる、静かな田園地帯という印象の街だった。ロンドンから電車とバスを乗り継いで南に向かい、乗り換え時間なども加えると、1時間半ほどかかっただろうか。

 エリックは、その街で、十代半ばの少女と、イギリスに駐留していたカナダ軍兵士とのあいだに生まれた。しかし、父親にはカナダで待つ家族があり、母親は若すぎたため、彼女の両親、つまり祖父母の家で育てられることとなる。幼いエリックを傷つけないようにという配慮から、二人は「両親」として彼を育てた。9歳か10歳のころ、ようやくその事実を知ったエリックは強い衝撃を受け、もちろん深く傷ついたそうだが、そういった複雑な幼少年期が彼の生き方や考え方、音楽に対する姿勢にも大きな影響を与えているようだ。

 この時期、エリックは、歳の離れた兄だと思っていた叔父から、ビッグ・バンドやヴォーカル・グループなどさまざまなタイプのアメリカ音楽を聞かされたという。異郷の音との出会いだ。アメリカでのいわゆる「ロックの誕生」は彼が10歳の時のことだから、もちろん、初期のロックンロールにも惹かれたはずだが、やや意外なことに、彼はギターを抱えて旅をつづける吟遊詩人のような生き方も夢みていたらしい。実際、このころに彼は、両親から安物のアコースティック・ギターを買ってもらってもいる。

 ブルースについては、かつて彼は、「まずチャック・ベリーやボ・ディドリーとの出会いがあり、マディ・ウォーターズを知り、ロバート・ジョンソンにたどり着いた」という意味のことを語っている。時代を遡るようにしてブルースを聴き込んでいくうち、「もっとも強い刺激を受け、衝き動かされた存在」を知ったというわけだ。

 具体的には、30年代半ばにジョンソンが残した録音作品をはじめて正式な形でアルバム化した『キング・オブ・ザ・デルタ・ブルース・シンガーズ』によってエリックはその伝説のブルースマンと出会っている。1961年、彼が16歳になったばかりのことだ。ジョンソンもまた、実の父親を知らず、困難な幼少年期を送っているが、彼の人生に自分を重ねるということもあったのだろう。

 翌年、祖父母の経済的援助を受けて最初のエレクトリック・ギター(KAYのセミ・アコースティックで、ギブソンES-335のコピー・モデル)を手に入れた彼は、本人が「傲慢なほど」と表現する強い自意識でギターに取り組んでいく。そして、いくつかのバンドをへて、63年の暮れにはヤードバーズのメンバーに迎えられたのだった。驚くべきスピードだ。その後、ブルースブレイカーズをへて、クリームの一員として新しいロックの時代の頂点に立ったクラプトンは、ブラインド・フェイスや初ソロ作を経由して、25歳の時、デレク&ザ・ドミノスの名義であの『レイラ』を発表している。

 しかし、その続編を制作している途中、さまざまな苦悩から彼は暗い闇のなかへと入り込み、ジョンソンやジミ・ヘンドリックスが亡くなったのと同じ27歳の一年間はほとんど外の世界と接触せずに過ごしている。駆け足の人生という言葉が似合うかもしれない。奇跡という言葉を使ってもいいのかもしれない。

 ある意味では、25歳までにすべてのことを成し遂げてしまった男、エリック・クラプトン。ここで取り上げられた曲も、「コケイン」以外はそのわずか数年のあいだに最初の版が録音されている。若き日のクラプトンが、強い自意識と、ジョンソンらへの敬愛の念、英国人的感性、苦悩や哀しみのすべてを昇華させた彼自身のブルース。そして、その核になるものとして演奏された卓越したギター。それが、ロックという表現領域の土台として、時代を超えて、今も、輝きを失うことなく、数えきれないほどの人たちに、認識されているか、されていないかを問わず、影響や刺激を与えつづけている。還暦を過ぎてもなお精力的な活動をつづけているクラプトン自身に対しても、である。

SOUND CHECK JAM/ HIDE AWAY

 クラプトンに影響を与えたブルースマンのひとりに、フレディ・キングがいる。70年代半ばには彼をスペシャル・ゲストの扱いでステージに招いたこともあるが、「ハイド・アウェイ」はそのフレディが60年に録音し、翌年には全米ポップ・チャートで29位まで上昇した、ブルース・インストゥルメンタルの傑作だ。

 63年に参加したヤードバーズでの活躍によって一躍注目の存在となったクラプトンは、しかし、ほかのメンバーがポップ・ヒットを指向するようになったことに反発して、バンドを去る(よく知られているとおり、その後任としてヤードバーズに参加したのがジェフ・ベックだ)。そして、しばらくの空白期間を置いて、ジョン・メイオールのブルースブレイカーズに参加した彼は、66年の春にその一員としてアルバムを録音している。メイオールは当時のブリティッシュ・ブルース界の教師的な存在だった。若いクラプトンはその教条主義的な姿勢にしばしば反発したそうだが、熱心なレコード・コレクターでもあった彼のもとであらためてブルースへの知識や見識を深めることともなった。

ブルースブレイカーズのアルバムで彼ははじめてリード・ヴォーカルに挑戦することとなり、ロバート・ジョンソンの「ランブリン・オン・マイ・マインド」を歌っているが、それもメイオールの勧めと助言を受けてのことだという。

 メイオール版ではHIDEAWAYとワンワードでクレジットされているこの曲も同じアルバムで取り上げられたもの。クラプトンは、フレディが弾いていたのと同じ54年製ゴールドトップのレスポールを手に入れようとしたそうだが、それはかなわず、61年製のレスポールを使い、フル・ヴォリュームのマーシャルとのコンビネーションで、エレクトリック・ギターの可能性を大きく広げたのだった。

SUNSHINE OF YOUR LOVE

 アルバム録音後、ブルースブレイカーズを去ったクラプトンは、ジャズやクラシックにも精通していた二人のミュージシャン、ジャック・ブルース/ジンジャー・ベイカーとクリームを結成する。66年夏、21歳の時だ。

 同年暮れにリリースされたファースト・アルバム『フレッシュ・クリーム』はブルース・クラシックのカバーと、ジャック・ブルースが中心になって書かれたオリジナルで構成されていて、クラプトンはギタリストとしての仕事に専念しているという印象が強い。

 翌年、アメリカに渡った彼らは、アトランティック・レコードの創始者、アーメット・アーティガンの指揮のもと、のちにマウンテンのリーダーとして大きな成功を収めるフェリックス・パパラルディをプロデューサーに迎えて2作目の録音をスタートさせる。その成果が67年暮れにリリースされた『カラフル・クリーム/DISRAELI GEARS』だ。

 この作品でクラプトンは、パパラルディらと「ストレンジ・ブルー」、オースラリア人芸術家マーティン・シャープと「英雄ユリシーズ」を書くなど、一気に総合的なアーティストとしての印象を強めている。サイケデリックやヒッピー・ムーヴメントに象徴される時代のうねりのようなものも、22歳の彼に強い刺激を与えたのだろう。70年代以降も長くステージの定番曲として取り上げられてきた「サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ」は、ジャック・ブルースと、クリームの作品の多くに作詞家として貢献したピート・ブラウンが書いていた曲に、クラプトンが手を加える形で完成したものといわれている。もちろん、彼の名前もソングライターとしてクレジットされた。ちなみに、クラプトンのアーティスト人生にとって大きなターニング・ポイントとなった『カラフル・クリーム/DISRAELI GEARS』で彼は、64年製のギブソンSGを弾いている。サイケデリック・ペイントが施された、あの、世界一有名なSGだ。

CROSSROADS

 16歳の時にはじめて聴いたロバート・ジョンソンは、エリック・クラプトンの人生の、ひとつの指標となった。しかし、30年代半ばにギター一本で録音された29曲はいずれも近づきがたいものであり、若いころはバンド・フォーマットで演奏しやすいものしか取り上げることができなかったと語っている。

 クリームの解散コンサートなどでの疾走感にあふれた演奏が印象的な「クロスロード」(原題はCROSS ROAD BLUES)もそういった背景があって取り上げられたものだと思うが、「十字路」は人生の岐路のメタファーであり、起伏に富んだ日々を送ってきたクラプトンにとってのテーマソングのようなものとして、今もしばしばステージで取り上げられている。

POLITICIAN

 68年の春、ザ・バンドのファースト・アルバム『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』を聴き、その味わい深い歌の世界に強い衝撃を受けたクラプトンは、トリオ編成にこだわるクリームに限界を感じたという。オーディエンスの大半が自分を「凄いギタリスト」としてしか受け止めていないことへの不満や疑問もあった。そういったことや、ブルースとベイカーの衝突などが重なって、クリームは、68年11月のロイヤル・アルバート・ホール公演を最後に、その活動に終止符を打っている。

 その年の夏、彼らはふたたびパパラルディをプロデューサーに迎えて通算3作目『クリームの素晴らしき世界/WHEELS OF FIRE』を発表しているのだが、すでに録音の時点ではメンバー間に緊張感がみなぎっていたのかもしれない。「政治家/POLITICAIN」は、その、実質的な最終作品に収められていた曲のひとつで、これもまた、ブルース/ブラウンの作品。ピート・ブラウンの社会批評的な視線を細かい音のひとつひとつが見事に表現していた。

COCAINE

 77年のアルバム『スローハンド』のオープニングを飾っていた曲で、21世紀に入ってからも、クラプトンとのライヴではほぼ欠かすことなく演奏されている「コカイン」は、オクラホマ州出身のアーティスト、J.J.ケイルの作品だ。

 クリーム解散後、スティーヴ・ウィンウッドらとブラインド・フェイスを結成したクラプトンは69年の夏からツアーを開始するが、バンドの方向性が定まらず、相変わらずオーディエンスが彼に求めるのは「凄いギタリスト」だけだったこともあり、短期間で挫折。南部出身のデュオ、デラニー&ボニーや仲間のミュージシャンたちと行動をともにするようになる。そして、彼らの協力を得て初ソロ作『エリック・クラプトン』を録音することになるのだが、その時、デラニー・ブラムレットから「これを歌ってみないか」と薦められたのが、当時はまったく無名の存在だったケイルの「アフター・ミッドナイト」だった。おそらく、自分にはないなにかを感じ取り、クラプトンはケイルに惹かれたのだろう。「コカイン」と「アフター・ミッドナイト」。クラプトンの代表曲のうちのふたつがケイルの作品だという事実が、その想いの深さを示している。

 04年、テキサス州ダラスで開催されたクロスロード・ギター・フェスティバルにクラプトンはケイルを招き、本格的な共演を実現。それがきっかけとなり、06年には共同名義のアルバム『ザ・ロード・トゥ・エスコンディード』を発表し、グラミー賞も獲得している。

WHITE ROOM

 すでに紹介した『クリームの素晴らしき世界/WHEELS OF FIRE』に収められていた、クリームの代表曲のひとつ。イントロやブリッジの変拍子、ワウワウを駆使したクラプトンのギター、ピート・ブラウンの書いた難解な歌詞など、さまざまな要素が溶け合い、サイケデリック・ロック時代を象徴する曲としての地位を確立したこの曲は、全米チャートの6位まで上昇するなど、商業的にも大きな成功を収めている。

2010年2月 大友博