“Jimi”

The Story of TRADROCK

Written by Hiroshi Otomo / Spring 2010

 ジミ・ヘンドリックスが、突然、どこからともなくロンドンの街に現れたのは1966年9月。ファースト・シングル「ヘイ・ジョー」がイギリスで発売されたのは同年12月のことだった。その後、彼は、いずれも名盤と呼ばれるにふさわしい3枚の優れたアルバムをつくり上げ、さらにはモンタレーやウッドストック、ワイト島といった歴史的フェスティバルで長く語り継がれることとなるパフォーマンスを残し、70年9月、この世を去っている。

 実質的な活動期間はわずか4年弱だが、27歳の若さで急逝したその男の伝説は、40年というとてつもなく長い歳月をへた今もなお、圧倒的な存在感とともに生きつづけているようだ。たとえば、米ローリングストーン誌や日本のギター・マガジンなどが組む「トップ・ギタリスト100」といった主旨の特集で、ジミはほぼ一貫して首位の座を守りつづけている。また、08年に実現したエリック・クラプトンとスティーヴ・ウィンウッドのジョイント公演では、「リトル・ウィング」、「ゼム・チェンジズ」、「ヴードゥー・チャイル」(15分に及ぶブルース・ジャム)とヘンドリックス関連の曲が3曲も、深い思い入れとともに捧げられていた。さらに付け加えておくと、赤坂ブリッツで観たオリアンティは「ヴードゥー・チャイルド(スライト・リターン)」でそのステージを締めくくっている(10年12月6日)。

 いったい、ジミ・ヘンドリックスとは何者なのだろう? この機会に、その伝説の原点ともなった、ロンドンの街に出現するまでの歩みをあらためて振り返ってみることとしたい。

 ジミ・ヘンドリックスは、第二次世界大戦中の1942年11月27日、ワシントン州シアトルで生まれている。誕生時の名前は、ジョニー・アレン・ヘンドリックス。その後、父親によってジェイムス・マーシャル・ヘンドリックスと正式に改名されている。

 その幼少年期は恵まれたものではなかった。陸軍兵士だった父は終戦直後のシアトルでまともな職に就くことができず、経済的にはきわめて困難な状況にあったようだ。加えて両親の離婚や母の死など、さまざまな苦境を乗り越える過程でジミは音楽、とりわけギターへの興味と関心を深めていった。とはいうものの、父親にはギターを買い与えてやる余裕などなく、ようやく彼が最初のアコースティック・ギターを手にしたのは15歳、最初のエレクトリック・ギター=スープロを手に入れたのは16歳のころだった。ちなみに、当時の彼が影響や刺激を受けたのは、エルヴィス・プレスリー、リトル・リチャード、B.B.キング、マディ・ウォーターズといった人たちだったという。

 幼少年期の体験や境遇に関してひとつ指摘しておかなければいけないことがある。それは、ジミが父方の家系からネイティヴ・アメリカンの血を受け継いでいたということだ。具体的には、チェロキー。困難な家庭状況もあり、クウォーター・チェロキーだった祖母のもとで時間を過ごすことも少なくなかったという。チェロキーはほかの部族から「空からやって来た人たち」と呼ばれていたそうだが、そこで祖母から聞かされていたはずの神話や伝説が、のちにジミが書く歌詞に深い部分で影響を与えていたような気がしてならない。

 もうひとつ指摘しておきたいのは、シアトルが音楽都市的な一面も持っていたということだ。レイ・チャールズとクインシー・ジョーンズが友情を育んだのはシアトルでのことであり、二人は何度か地元の黒人ミュージシャンたちが集まるクラブで演奏していた。当時ガーフィールド・ハイスクールの生徒だったクインシーはその後バークリーに進むことになるのだが、彼より9歳下のジミもじつは同じ高校で学んでいる(校内にはジミの胸像が飾られている。正確には、卒業生ではないのだが)。

 エレクトリック・ギターを核にしたバンド・スタイルのパイオニア、ベンチャーズもシアトル/タコマ地区の出身だ。彼らの出世作「ウォーク・ドント・ラン」の最初のヴァージョンがリリースされたのは 60年。同年夏には全米2位まで上昇しているが、その時期は、高校をドロップアウトしたジミがシアトルでミュージシャンとして一歩を踏み出したころと重なっている。ひょっとすると、彼らはどこかで出会っていたかもしれない。少なくとも、ジミがベンチャーズのステージを観ていた可能性はある。想像の域を出ないが、そんなふうに考えてみると楽しいではないか。

 シアトルで腕を磨いていた彼は車両盗難などのトラブルを起こし、刑務所に行くか、陸軍に入隊するかの選択を迫られ、結局、後者を選んでいる。そして基礎訓練のあとケンタッキー州の基地に向かった彼はパラシュート部隊に配属されたのだった。当時の思い出を肯定的に語ったことは少ないようだが、ここでも、見逃すことのできない貴重な体験と重要な出会いがあった。ジミの音楽が持っている飛翔感や宇宙的感覚ともつながる降下訓練時の浮遊体験と、終世の友となるベース奏者ビリー・コックスとの出会いだ。

 62年秋に除隊したジミはそのビリーとともに、ナッシュビル周辺のリズム&ブルース・サーキットを拠点に経験を積んでいった。そして、あるレベルに達し、そのエリアではもう吸収するものがないと実感した彼はニューヨークにベースを移し、自身のバンドを率いた活動を模索しながら、さまざまなアーティストのバックを務めることになる。アイズリー・ブラザーズ、リトル・リチャード、キング・カーティス、サム・クックなど大物ばかりなのだが、いずれも長くつづいてはいない。「人のために演奏するのではなく、自分の音をつくりたい」という気持ちがやはり強かったのだろう。

 とはいうものの、この時期の彼は優れた演奏をしっかりと残している。とりわけ64年にアイズリーズと録音した「テスティファイ」が素晴らしい。ファンキーなカッティングからスピード感にあふれたソロに移っていく鮮やかな感触は完全に時代の先をいくものだった。自身の理想を追い求めながらR&B/ソウルの世界に身を置いていた当時の体験は、間違いなく、その後の創作活動にもいい形でつながっているはずだ。

 そして、1966年7月。グリニッジビレッジのクラブCAFE WHA?などでライヴをつづけていたジミは、噂を耳にしてやって来たチャス・チャンドラーに声をかけられた。彼はなにか、とんでもなく大きな可能性を感じたのだろう。

 「朝日のあたる家」などで知られるアニマルズのベース奏者だったチャンドラーは、グループを離れ、プロデューサーとして活動していく決心をしたばかりだった。その最初のアーティストとして目をつけたのが、ジミ・ヘンドリックスだったのだ。それほど彼のライヴ・パフォーマンスは強烈なものを持っていたのだろう。チャンドラーはイギリスで活動するようジミを説得し、彼はそのオファーを受け入れた。「クラプトンと共演させること」。それがジミの提示した交換条件のひとつだったという。

 偉大なジャズ・ドラマー、エルヴィン・ジョーンズを師と仰ぐミッチ・ミッチェルと、ギターからベースに転向したノエル・レディング。オーディションなどを通じて出会った二人の英国人ミュージシャンとザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスを結成し、本格的な活動をスタートさせた彼は、プライドの高いイギリス人アーティストたちに強い衝撃を与えた。ザ・フーやストーンズのメンバーでさえ、列に並んで彼のライヴを待ったこともあるという。クラプトンがアフロ風のヘアスタイルにしたことも、ジミの影響だろう。おそらく彼らは、決定的に自分たちに欠けているものをジミから聴きとったのだ。

 67年6月、モンタレー・ポップ・フェスティバルに登場したとき、彼らのファースト・アルバム『アー・ユー・エクスペリエンスト?』はまだアメリカでリリースされていなかった。ブライアン・ジョーンズがステージに上がり、「君たちの国が生んだ素晴らしいアーティスト」と紹介したのは、そういう事情もあってのことなのだ。

 アクロバティックなプレイやギターを燃やすシーンなどでイメージが固定されていくなか、しかしジミは、レコーディングではアルバム・アーティストとしての側面をきわめて強く打ち出し、ギル・エヴァンスやマイルス・デイヴィスからも注目される存在となっていく。最後のスタジオ録音作品『エレクトリック・レディランド』を完成させたあとは、理想の創造環境を手に入れ、時間や予算の制約に縛られず、膨大な音源を残していった。

 亡くなる直前には、いったんライヴ活動から離れて本格的に音楽理論を学び直し、大編成のユニットをスタートさせることも具体的な計画としてあったという。そして、活動の中心はスタジオに置き、ライヴは定期的に映像で発表するという、当時としてはまったく画期的なアイディアすら固めていたそうなのだ。ちょうどそのころ、クラプトンはアルバム『レイラ』に「リトル・ウィング」を収め、彼にプレゼントするため、左利き用のストラトキャスターを手に入れたものの、結局、渡せなかったという。

 エリック編からはじまり、TRADROCKシリーズに関する原稿の執筆を担当してきたが、これまでは、いわゆるシンクロ権(映像用に外国曲を録音する権利)と抵触する可能性もあり、それぞれの曲とCharヴァージョンとの関連については触れずにいた。しかし、選曲でもお手伝いさせていただいたこの「ジミ編」では、そのシンクロ権がネックとなり、DVD版で彼のオリジナル曲を使用することができなかったという事実だけは紹介しておく必要があるだろう。結果的には、充分に観応え、聴き応えのある作品に仕上がっているが、さまざまなメッセージを発信して音楽の裾野を広げていくという目標を持つこのプロジェクトの成功のためにも、関係諸団体がより積極的に取り組んでいただけていたらと、少々残念に感じている。

PURPLE HAZE

 CD版のみ収録の「パーブル・ヘイズ」は、ジミのオリジナルで、67年3月にリリースされている。あらためて紹介するまでもない、ヘンドリックス初期の代表曲であり、サイケデリック・ロックの時代を代表する名曲だ。R&B/ソウルの世界である程度の経験を積んでいたとはいえ、本格的な録音体験はそれほど多くなかった彼がシングル2作目にして驚くほど深い広がりを持つ音の世界を創造していたことには、いつ聴いても驚かされる。終盤での、オクタヴィアを効かせたギターの扱いなどはジミー・ペイジあたりにも刺激を与えていたはずだ。

MANIC DEPRESSION

 同じくCD版のみ収録の「マニック・ディプレッション」は、デビュー当時の記者会見でアガってしまった経験をもとに書かれたものだという。67年3月に録音され、ファースト・アルバム『アー・ユー・エクスペリエンスト?』に収められたが、これは、ジミの音楽活動にとってミッチ・ミッチェルがきわめて大きな意味を持つ存在だったことを示す好例といえるだろう。渡英の決断は間違いではなかったのだ。

THEM CHANGES

 69年6月にエクスペリエンスをいったん解散させたジミは、ウッドストックなどで実験的なライヴを行なったあと、陸軍時代からの音楽仲間でもあるベース奏者ビリー・コックス、アイズリーズ時代に知りあっていたドラマー、バディ・マイルスとバンド・オブ・ジプシーズを結成。70年の元旦、フィルモア・イーストでのステージからライヴ盤をリリースしている。「ゼム・チェンジズ」は優れたヴォーカリストでもあったマイルスの作品で、『バンド・オブ・ジプシーズ』にも収められていた。

 マイルスは長く心臓疾患と闘ったあと、08年2月26日、テキサス州の自宅で亡くなっているのだが、その前日、彼は遠く離れたニューヨークから素敵なプレゼントを受け取っている。クラプトンとウィンウッドのジョイント公演初日、二人が演奏する「ゼム・チェンジズ」をマイルスの友人が携帯電話で聞かせたというのだ。

ALL ALONG THE WATCHTOWER

 ほかの人の才能を素直に認めて受け止めることも、優れたアーティストの条件といえるかもしれない。クラプトンやベックほどのアーティストにさえ嫉妬に近い想いを抱かせたヘンドリックス自身は、ボブ・ディランを高く評価していた。やはり、自分にはないなにかを彼の歌から聴きとっていたのだろう。

 実際、ごく初期の段階から「ライク・ア・ローリング・ストーン」を大胆な解釈でカバーしていたが、ディランが67年暮れ発表の『ジョン・ウェズリー・ハーディング』に収めたこの曲に関しては、あるパーティではじめて耳にした瞬間、強いインスピレーションを感じてスタジオに直行し、短時間でベーシック・テイクを仕上げてしまったというエピソードも残されている。

WILD THING

 モンタレー・ポップ・フェスティバルなどライヴでしばしば演奏されたこの曲は、アメリカ人ソングライター、チップ・テイラーの作品。イギリスのグループ、ザ・トロッグスのヴァージョンが66年夏に全米1位まで上昇してよく知られるようになった曲だが、ジミはCAFE WHA?時代からステージで取り上げていたという。やや意外なヴァージョンとして、ジェフ・ベックも自らのヴォーカルで「ワイルド・シング」を吹き込み、86年にシングルとしてリリースしている。明らかにジミへのトリビュートを意図したものだったのだろう。

HEY JOE

 すでに書いたとおり、「ヘイ・ジョー」はザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのファースト・シングル。66年10月にロンドンで録音され、年末にイギリスでリリースされている。ビリー・ロバーツというアメリカ人ソングライターが書いたもので、ザ・リーヴス、ザ・バーズなど多くのアーティストが録音しているが、ジミはフォーク・シンガー、ティム・ローズのアレンジを取り入れたスタイルで、やはりCAFE WHA?時代から演奏していたという。

THIRD STONE FROM THE SUN

 ジミ・ヘンドリックスは「ヘイ・ジョー」、「パープル・ヘイズ」、「ザ・ウィンド・クライズ・マリー」と3枚のシングルで強い印象を与えたあと、67年5月、ファースト・アルバム『アー・ユー・エクスペリエンスト?』をイギリスでリリースしている。自作のインストゥルメンタルで、地球を意味する「サード・ストーン・フロム・ザ・サン」はその記念すべきデビュー作のハイライトと呼べるもの。すでに66年暮れの時点でベーシック・トラックが完成していたそうで、その先進性と柔軟な音楽性にあらためて驚かされる。ジャコ・パストリアスがしばしばステージで演奏したことでも知られる名曲だ。

CROSSROADS

 モンタレー出演後にアメリカでリリースされた『アー・ユー・エクスペリエンスト?』は、前述のシングル3曲が加えられ、オリジナル・ブルースの「レッド・ハウス」などが外されるという構成になっていた。周囲の人たちはヘンドリックス=ブルースマンというイメージを打ち出したくなかったのかもしれない。しかし、北西部の出身とはいえ、当たり前のこととして、彼の音楽はブルースに根ざしていた。クリームのヴァージョンで知られるこの曲のオリジナルは、ミシシッピ出身のブルースマン、ロバート・ジョンソン。ロックの時代へと受け継がれていく29の名曲といくつもの伝説を残して1938年に亡くなったとき、彼は27歳だった。

BORN TO BE WILD

 ドイツ出身のヴォーカリスト、ジョン・ケイを中心にロサンゼルスで結成されたバンド、ステッペンウルフの、67年発表のヴァージョンがオリジナル。「ヘヴィ・メタル・サンダー」というフレーズも印象的なこの曲は、アメリカン・ニュー・シネマを代表する名作『イージー・ライダー』で使われてロック・スタンダードの地位を確立した。ジミは69年12月、マイルス/コックスと「イージー・ライダー/EZY RYDER」という曲を録音しているが、その歌詞は映画からインスピレーションを受けて書いたものだという。

2010年冬 大友博