“Jimmy”

The Story of TRADROCK

Written by Hiroshi Otomo / Winter 2010

 きわめて月並みで、やや幼稚な表現かもしれないが、バンドとは、結局、生き物なのだと思う。

 純粋に少年時代の友情を背景に生まれたバンド。ある男が自分のヴィジョンを実現させるために、そのコンセプトにあったミュージシャンを結集させる形でつくり上げたバンド(ロック・ヒストリーに関する本を読んでいると、「雑誌のメンバー募集記事がきっかけ」というバンドは意外なほど多い)。当初からビジネス的視点で組み立てられたバンド。あるいは、充分に経験を積み、一定の評価や名声も得ている男たちが、方向性やイメージに関して合意したうえでスタートさせたバンド。

 成り立ちはいろいろだが、いったん歩みはじめたバンドは、大きくふたつに分類できるのではないかと思う。複数の人間の集合体がひとつの明確なパーソナリティを打ち出し得たバンドと、複数の人間の集合体というレベルを超えることのなったバンド。このふたつだ。

 極端にいえば、前者はメンバー交替や補充は基本的にあり得ない。奇跡的に生まれたバンドとしてのパーソナリティは、誰かが欠けたら消滅してしまうからだ。対照的に後者は、メンバー交替や補充を繰り返しながら、バンドとしての態勢を維持しつづけていく。数でいえば、前者はまさに数えるほど。後者はそれこそ数えきれないほどいる。

 レッド・ツェッペリンは、純粋に少年時代の友情を背景に生まれたバンドではない。ジミー・ペイジが自分のヴィジョンを実現させるために、そのコンセプトにあったミュージシャンを結集させる形でつくり上げたバンドだが、そういった成り立ちを持ちながら、ひとつの明確なパーソナリティを打ち出し得た数少ないバンドのひとつである。だからこそ、ジョン・ボーナムが亡くなったとき、彼らはバンドに終止符を打ったのだと思う。ここであらためて書くまでもなく、ボンゾは強烈なパワーと独特のタイム感覚を持った唯一無二のドラマーだったが、音楽的な側面だけが理由ではなかったはずだ。

 1968年にレッド・ツェッペリンをスタートさせたとき、すでにジミー・ペイジはイギリスのロック界を代表するギタリスト/クリエイターとしての評価を確立していた。おそらくは社会体制の影響もあり、イギリスのミュージシャンはおしなべてスタートが早いのだが、彼も18歳のとき(1962年)、スタジオ・ミュージシャンの仕事をはじめている。ローリング・ストーンズ、ザ・フー、キンクスなど多くのアーティストのレコーディングに貢献し、二十歳のときにはプロデュース・ワークも手がけるようになっているのだ。

 1965年、エリック・クラプトンがヤードバーズを去ったとき、キース・レルフたちが声をかけたのも、ジミー・ペイジだった。しかし、スタジオ・ワークに可能性を感じていた彼は、そのとき、友人のジェフ・ベックを推薦している。翌年には彼自身もヤードバーズに参加。短期間ながらベック/ペイジのツイン・ギター態勢を実現させ、ベックが去ったあとは演奏面での中心的存在としてバンドを支えていった。そして分裂後は、残されたライヴ契約をこなす意味もあって、バンドそのものを引き継いだのだ。

 さまざまな経緯があり、いくつかの試行錯誤があり、ニュー・ヤードバーズと呼ばれた時期をへて、68年の秋、彼らはレッド・ツェッペリンとしての飛翔を開始した。

 ベースは職人的な実力派プレイヤーのジョン・ポール・ジョーンズ。彼とペイジはすでにスタジオ・ワークを通じて知りあっていた。いずれもイングランド中西部出身のロバート・プラントとジョン・ボーナムは、彼らとは違い、いってみればダイヤモンドの原石のような存在。ふたりはともに、二十歳になったばかりだった。

 この4人の出会いから奇跡的なケミストリーが生まれ、70年だという時代を通じてレッド・ツェッペリンは前進をつづけた。そして、すでに書いたとおり、ジョン・ボーナムの急逝がきっかけで彼らは活動停止を表明したのだった。

 その後、アトランティック・レコード40周年記念コンサート、ライヴ・エイド、ロックンロール・ホール・オブ・フェイム授賞パーティー、07年のロンドンO2公演など、残ったメンバー3人が顔をあわせることは何度かあったが、基本的には彼らは別々の道を歩んできた。

 レッド・ツェッペリンのプロデューサーでもあったジミー・ペイジは、バンドの管財人的な立場でリマスター作業や映像の発掘、作品化などに取り組んできた。08年のプロモーション来日の際の記者会見で「新しくリマスターされるたびに買わなければいけないのか?」と質問され、「買わなくていいよ」と笑いながら答えていた顔が忘れられない。インタビューする機会も得たが、そこで印象に残ったのは「ツェッペリンで残した音は何度聴いても、発見があり、あきることがない」という発言。それが、ペイジにとってのツェッペリンなのだろう。

 一貫してマイペースで創作活動をつづけてきたジョン・ポール・ジョーンズは、最近では、ニルヴァーナ/フー・ファイターズのデイヴ・グロールとのプロジェクト、ゼム・クルックド・ヴァルチャーズで健在ぶりを示している。ちなみに、94年にペイジとロバート・プラントが本格的なプロジェクトをスタートさせたときは、温厚そうな彼もさすがに怒ったという。

 10年ほど前、ミシシッピ・デルタ地帯に点在するブルースの聖地を旅したとき、ロバート・プラントが地元の人たちと肩を組んで微笑む記念写真を何度か目にした。ボヘミアン的なスタンスを物語るエピソードだと思うが、こういった生き方を追求していく過程で彼は、アメリカのルーツ音楽に深い関心を示した『レイジング・サンズ』をつくり上げ、驚異的な成功を収めている。

 ギタリスト=ジミー・ペイジをテーマにしたこの作品では、レッド・ツェッペリンの10年の歴史のなかから、文字どおりロック界に大きな衝撃を与えた最初の2枚のアルバムに焦点が当てられている。4作目が最高傑作という人は多いだろう。『聖なる館』以降が好きという人も少なくないと思うが、最初の2枚に限定したことでジミーが目指したことと、集合体としてのレッド・ツェッペリンが向かっていた場所がより明確になったようだ。

・YOUR TIME IS GONNA COME
・DAZED AND CONFUSED
・COMMUNICATION BREAKDOWN
・GOOD TIMES BAD TIMES
・BABE I’M GONNA LEAVE YOU

 68年秋にロンドンで録音され翌年1月に発表されたファースト・アルバムからはこの5曲が取り上げられている。このアルバムではロバート・プラントがソングライティング面でほとんどクレジットされていないが、それは契約上の問題が理由だったらしく、プロデューサーでもあるジミー・ペイジのギターを核に4人がほぼ対等の立場で一丸となって作品をつくり上げていくスタイルは、この時点でもう完成していたといっていいだろう。

 「時が来たりて/ユア・タイム・イズ・ゴナ・カム」は、当時のアルバム制作ではきわめて重要な意味を持っていたB面頭に据えられていた曲。A面でガツンとやられたリスナーがディスクをひっくり返して針を落とすと、いきなりジョーンズの弾く教会的イメージのオルガンが聞こえてくる。中盤ではペイジがペダル・スティールを弾いている。ブリティッシュ・フォーク的要素の導入も含めて、彼らがハードでヘヴィなだけのバンドではないことを意図的に明示した曲といえるだろう。

 ヤードバーズ時代にはもう原型ができあがっていたもので、当時からペイジはバイオリンの弓でギターを弾く奏法を導入していたという「幻惑されて/デイズド・アンド・コンフューズド」とハードな「コミュニケーション・ブレイクダウン」はどちらも、まさに初期ツェッペリンを象徴する名曲であり、ライヴのハイライトとなっていた曲だ。ツェッペリンの曲は、ペイジが考えた、あるいは彼のいわゆる指癖から生まれたギター・リフをもとに書き上げていったものが多いが、「コミュニケーション・ブレイクダウン」はその典型的な例といえるだろう。

 「グッド・タイムズ・バッド・タイムズ」は、ファースト・アルバムのオープニングに据えられていた曲で、シンプルな構成ながら、やはりなんといってもボンゾのドラムスが強烈だ。ツェッペリンはシングルにこだわらない、完璧なアルバム・オレエンティド・バンドだったが、この曲は「コミュニケーション・ブレイクダウン」とのカップリングで、69年3月、彼らのファースト・シングルとしてもリリースされている。

 アルバムの流れでは、その「グッド・タイムズ・バッド・タイムズ」が2分40秒で終わると、Amから下降していく、いかにもブリティッシュな響きのアコースティック・ギターが聞こえてくる。ジョーン・バエズも歌ったアメリカのフォーク・ソングをレッド・ツェッペリン風に料理し直したものだが、こういったやや意外な展開からも、ペイジの並々ならぬプロデュース能力がみてとれる。

・HEARTBREAKER
・WHOLE LOTTA LOVE
・THANK YOU
・WHAT IS AND WHAT SHOULD NEVER BE

 69年秋にリリースされたレッド・ツェッペリンのセカンド・アルバムからはこの4曲が取り上げられている。ファースト・アルバム完成直後から8月にかけていくつかのスタジオで録音されたこのアルバムで、レッド・ツェッペリンは明らかな変化と成長を示していた。その大きな要因のひとつが、若い彼らがバンドとしてアメリカに渡り、新しいロックの波から直接的な刺激を受けたこと。もうひとつが、ジミ・ヘンドリックスの創作活動を支えたエディ・クレイマーがエンジニアとして参加するようになったこと。彼の力を得たことで、スタジオ器材も楽器のように使いこなして音を構築していくという、ペイジが当初から目指していた手法が本格的に確立されたのだ。

 「ハートブレイカー」と「胸いっぱいの愛/ホール・ロッタ・ラヴ」は、ジミー・ペイジのギター・リフを核に曲をつくり上げていく手法が成功した典型的な例だが、ここでも音全体が1作目と比べるとぐっと深みや広がりを増していた。「胸いっぱいの愛」でペイジはテルミンをフィーチュアするという冒険もしていた。

 「サンキュー」は「時が来たりて」の続編的なイメージを持った曲だ。コード進行や楽器編成も近いが、「時が来たりて」はペイジ/ジョーンズの作品だったのに対して、「サンキュー」はペイジ/プラントとクレジットされている。最年少のプラントがぐっと存在感を増したことも、この時期のツェッペリンの大きな変化のひとつといえるだろう。

 「強き二人の愛/ホワット・イズ・アンド・ホワット・シュッド・ネヴァー・ビー」もペイジ/プラントの作品。MTV『アンプラグド』への出演をきっかけに実現したペイジ&プラントのツアー(94年)でも重要なレパートリーのひとつとして演奏された曲だ。

2010年冬 大友博