“The V”

The Story of TRADROCK

Written by Hiroshi Otomo / Spring 2010

 今年、2010年4月29日に発表された外国人叙勲受章者のなかにザ・ベンチャーズの名があった。その手の、いわゆる公的な評価が直接的に芸術的価値を示すものだとはまったく思わないが、この叙勲関連のニュースは、ベンチャーズと日本人との関係、日本におけるその存在の大きさを物語る、じつに興味深いエピソードといえるのではないだろうか。

 とにもかくにも、ベンチャーズこそはエレクトリック・ギター(あのテケテケをイメージさせるエレキという言葉のほうが、よりしっくりとくるかもしれない)の世界への扉を日本人に向けて大きく開いてくれた存在であり、60年代の日本のカルチャーにとっては文字どおりアイコン的な存在だったのだ。

 2004年、ベンチャーズがひさしぶりにノーキー・エドワーズを迎えた編成で来日をはたした際、ライヴ・プログラムの制作を手伝うこととなり、ボブ・ボーグル、ドン・ウィルソン、ノーキーの3人にインタビューする機会を得た。忘れられない思い出だ。おそらくそれまでに何万回も聞かれていたはずの質問にも、丁寧に、笑えるエピソードもまじえながら答えてくれるその姿、表情が今も忘れられないが、そこで聞いた話などをもとに、あらためてベンチャーズの歩みを振り返ってみることとしたい。

 ベンチャーズの出発点は、50年代末の、ボブ・ボーグルとドン・ウィルソンとの出会いだ。オクラホマ出身で、十代半ばから煉瓦積みの職人として働いていたというボーグルは、シアトルに滞在していた時、近郊のタコマで生まれ育ったウィルソンと親しくなっている。

 そして、二人はともに音楽に興味を持っていて、多少は楽器にも弾けたこともあり、ギター・デュオのようなものを組み、地元のクラブなどで演奏するようになったのだった。いわゆる「ロックの誕生」からはすでに数年が過ぎていたが、彼らはチェット・アトキンスらのインストゥルメンタル作品をお手本にして、次第に独自のインストゥルメンタルの世界を目指していくこととなる。

 しばらくすると、二人は同世代のミュージシャン、ノーキー・エドワーズと出会い、彼をバンドのベーシストとして迎え入れた。ボーグルと同じオクラホマの出身で、少年時代からさまざまな弦楽器に親しんできた彼は、カントリー界の大物、バック・オーウェンスの誘いを受けて、シアトルに拠点を移していたのだった。

 その直後、彼らは自主制作のスタイルで、チェット・アトキンスのアルバムに収められていた「ウォーク・ドント・ラン」を録音。リリースにあたってはウィルソンの母親が経済的援助を申し出たという美しいエピソードも残されている。この、ごく初期段階での本格的レコーディングの時点ではスキップ・ムーアというミュージシャンがドラムスを叩いていたそうだが、レギュラー・ベースでライヴ活動をつづけるため、彼らはハウウィ・ジョンソンをドラマーに迎えてバンドの態勢を完全なものとした。ここで、いよいよ正式にベンチャーズの物語がスタートしたわけである。

 「ウォーク・ドント・ラン」は1960年の夏に全米チャートの2位まで上昇するという驚異的な成功を収め、ベンチャーズは一躍注目の存在となった。

 念のために書いておくと、これは、ビートルズやローリング・ストーンズ、ビーチ・ボーイズらが新しい大きな波を巻き起こす前のことである。60年代のロック文化のなかでベンチャーズが語られることはあまりないが、エレクトリック・ギターを核にした少人数の編成による演奏のスタイルが確立される過程で彼らがはたした役割の大きさには計り知れないものがある。

 最初の大きな転機を迎えたのは、1962年(ビートルズが本国イギリスでデビューをはたした年)。交通事故が原因でジョンソンが脱退し、後任として、すでにプロとして経験を積んでいたメル・テイラーが参加したのだ。エドワーズの提案で、彼がリード・ギターを担当し、ボーグルがベースにスイッチすることが決まったのも、このころのこと。

 こうして、60年代を実体験した者には懐かしい、あの黄金の編成が完成したわけである。ちなみに、同じ年、ベンチャーズはレコード会社のイベントで初来日をはたしているのだが、実際にやって来たのはウィルソンとボーグルの二人だけ。予算の関係だったのか、ベースとドラムスは日本人が担当することとなり、「けっこうたいへんだった」と、二人は笑いながら当時の思い出を語っていたものだ。

 エドワーズのリード・ギターで録音した「ウォーク・ドント・ラン 64」などのヒットでますます大きな存在になっていったベンチャーズは、65年1月に、ウィルソン、ボーグル、エドワーズ、テイラーの編成で初の本格的な来日公演を行ない、「エレキ・ブーム」の大旋風を巻き起こした。あの『勝ち抜きエレキ合戦』の放送がフジテレビでスタートしたのが9月、『エレキの若大将』(そば屋の店員に扮した寺内タケシが若大将の部屋でギターを弾くシーンは、見事に時代の変化をとらえていた)の公開が12月。1965年はまさに、日本のポピュラー音楽界における大きなターニング・ポイントとなる年だったのだ。

 エドワーズとジェリー・マッギー(すでにスタジオ・ミュージシャンとしての実績があり、70年代にはデラニー&ボニーにも貢献した)の交替など、何度かメンバー・チェンジを行ないながら、ベンチャーズはウィルソンとボーグルを核に、その活動をつづけていった。次第にヒット・チャートからは遠ざかっていったが、80年代にはやや意外な形で再評価されてもいる。ブロンディやゴーゴーズ、B-52sなど、ニューウェーヴ以降に活躍したバンドが、そのサウンドに大きな影響を与えられた存在として、ベンチャーズの名をあげたのだ。日本における「エレキ・ブームの火付け役」的なイメージとはまた少し違った次元で、彼らの音楽は、なにかとてつもなく大きなものを後進のために残していたのだろう。

 ベンチャーズがはじめて本格的な日本公演を行なった1965年、日本でエレキ・プームが巻き起こったこの年、Charは10回目の誕生日を迎えている。その彼が、楽しみながら、そして、あらためて多くのことを吸収しながら取り組んだというこのDVD作品に収録されているのは、いずれも、ベンチャーズの歴史と功績を語るうえで欠かすことのできない曲だ。

TEN SECONDS TO HEAVEN

 本国アメリカでのシングル発売は1965年。ベンチャーズはすでに一定の評価を得ていた作品に独自のスタイルで取り組むことが多かったが、フランク・ペリー作のこの曲も例外ではない。日本では「パラダイス・ア・ゴー・ゴー」という強烈なタイトルがつけられている。

OUT OF LIMITS

 ベンチャーズは宇宙的なイメージの曲を数多く残しているが、これはその典型的な例。サーフ・ロック・ブームを牽引したインストゥルメンタル・グループのひとつ、ザ・マーケッツがTVシリーズ『アウター・リミッツ』のテーマ曲を下敷きにして録音したヴァージョンがオリジナルで、こちらは、1964年に全米3位の大ヒットを記録している。

LOVE POTION #9

 ヴォーカルもののヒット曲を自分たちのものにしてしまうことも、ベンチャーズの得意技のひとつだった。「ハウンド・ドッグ」などの名曲で知られるソングライター・チーム、リーバー&ストーラーの作品で、R&Bグループ、ザ・クローヴァーズが59年にヒットさせたこの曲は、その好例といえるだろう。

 ベンチャーズ版のシングル発売は65年で、この年には、サーチャーズのヴァージョンもヒットを記録している。

TWO THOUSAND POUND BEE PART II

 ベンチャーズの創設者であり(バンド名は彼の母親のアイディアだという)、一貫してリズム・ギター担当という立場からバンドのサウンドを支えてきたドン・ウィルソンの作品。アメリカでのシングル発売は1965年で、A面がパートI、B面がパートIIという構成だった。

SECRET AGENT MAN

 TVシリーズ『シークレット・エージェント』から生まれた曲で、ジョニー・リヴァーズが歌ったヴァージョンが1966年に全米3位を記録している。

 オリジナルの歌詞は秘密諜報員として生きることの緊張感を描いているが、ベンチャーズ版は、エレクトリック・ギターだけでその感覚をきっちりと表現していた。

FUGITIVE

 邦題は「逃亡者」。TVドラマや映画をイメージしてしまうが、それらとはまったく無関係のインストゥルメンタル・トラックで、レインジャーズというグループがオリジナルだそうだ。

PEDAL PUSHER

 ウィルソン/ボーグル/エドワーズ/テイラーの共作曲としてクレジットされたシングルで、全米発売は絶頂期の1965年。カップリングされた「スウィンギン・クリーパー」も4人の共作曲だった。

REFLECTIONS IN A PALACE LAKE

 ベンチャーズの爆発的な人気は、当然の成り行きとして、日本の歌謡界との、いわゆるコラボレーションを生むこととなった。

 具体的には、ベンチャーズが作曲と演奏を担当し、日本側で歌詞をつけたものを、人気歌手が歌うというもの。和泉雅子と山内賢の「二人の銀座」、奥村チヨの「北国の青い空」、ハワイアン歌謡歌手だった渚ゆう子の「京都の恋」と「京都慕情」、欧陽菲菲の「雨の御堂筋」とつづくわけだが、これは、そのうちの「京都慕情」。作曲は、ギターがジェリー・マッギーに替わり、ジョン・ダリルがキーボードを担当していた当時のメンバー5人だ。

CARAVAN

 1930年代の作品で、デューク・エリントンの演奏などで知られるジャズ・スタンダード。こういう作品にも果敢に挑戦し、難なく自分たちのものにしてしまうところが、ベンチャーズの凄さだった。

SLAUGHTER ON 10TH AVENUE / BALADD OF THE AVENUE (ON YOUR TOES)

 ベンチャーズの代表曲であり、「十番街の殺人」の邦題で知られるこの曲も、彼らはこんな作品にも取り組んでいたのかと驚かされるもののひとつ。元になっているのは、リチャード・ロジャーズ/ジョージ・アボット作のブロードウェイ・ミュージカル『ON YOUR TOES』の終盤で演奏されるバレー楽曲だ。

WALK DON’T RUN

 発売当時「急がば廻れ」という邦題がつけられていたこの、ベンチャーズの出世作は、ジャズ・ギタリスト、ジョニー・スミスの作品。本文でも紹介したとおり、彼らは尊敬するチェット・アトキンスのヴァージョンを下敷きにしていたそうだ。1960年に大ヒットした最初のシングルではボブ・ボーグル、64版ではノーキー・エドワーズがリード・ギターを担当している。

DIAMOND HEAD

 60年代当時の日本人にとってはまだまだ憧れの土地だったハワイのダイアモンド・ヘッドをイメージした曲だ。ベンチャーズは、サーフィンにしても、宇宙にしても、ずっと遠いところにあるものを音で教えてくれる存在でもあったのだと思う。

 振り返ってみれば、エレキだってそれまでは普通の人にとっては別世界のものだった。彼らはそのイメージを一変させ、音楽体験に関係なく、誰もがギターを手にするような新しい時代への扉を開いてくれたのだ。

PIPELINE

 カリフォルニア州サンタアナ出身のインストゥルメンタル・グループ、シャンティーズがオリジナル。作曲もメンバーの手になるものだ。彼らのヴァージョンは63年に全米4位の大ヒットを記録している。

ANGEL

 CD版の最後に収められているこの曲は、ジミ・ヘンドリックスの叙情的な魅力が凝縮された名曲だ。ちなみにヘンドリックスはシアトル生まれのシアトル育ち。今はシアトル郊外の墓地で眠っている。あのころ、ドン&ボブとジミがどこかで接触していたということも、ひょっとすると、あったのかもしれない。

2010年夏 大友博